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Mr.Children
名もなき詩

1996年・シングル
トイズファクトリー

 

とりあえず、Mr.Childrenのキーワードといえば「ダメ人間」。

「色んなものにぶつかり」、「自分の弱さを認めず」、「何でも他人のせいにしたり」、「愛することが傷つけ合うことにスリかわったり」もう年がら年中同じこと繰り返しとります。歌というものは人が心の中に抱えたコンプレックスをすくい上げてくれるという効能があるんですが、こういうのは精神衛生上は良くても社会的にはあんまり感心しない結果になることが多いですな。

自分に対して厳しい社会、ちっとも救われない心のなか、どんどん広がる幻滅感。そういうの感覚を歌って、迷える子羊たちの心のもやもやを代弁してるんですが、じゃあ桜井さん、私らはどうしたらいいんどす?と聞いたら「心のままボクはいくのさ誰も知ることのない明日へ」とか「見えない敵にマシンガンをぶっ放せ」とかケムに巻かれる。何か、宗教みたいですな共感よんで集めるだけ集めて、後は全員で集団自決でもするんでしょうか。問題提起だけして、解決が用意されていないと、「みんなそうなのか、じゃあオレもそれでいいか」というマイナスの連帯感が生まれてしまう。EVAでもシンジ君、自分自身の悪いところは全く直さないでパラダイムチェンジだけ施して補完されとりましたが。そういうの、開き直りって言うんではないでしょうかね?実際、ボクのような立場の人間にとってはミスチルは自分のダメな部分の逃げ道になっていてもう甘美すぎて離れられないんですが。

ま、歌ってる本人もどうしたらいいかわかっとらんからなあ。「今日は雨降りでも雨のち晴れ」とかいっときながら何年も何年もしょうこりもなくダメ人間やっとるし。要するに無反省。「世の中は理不尽で満ちている、オレは苦しんでいる、アンタも同じだろう。生きるってままならないよ。だから妻子を捨てて東北でギリギリガールズを囲ってもしょうがないよね?!」みたいな。で、それを聴いてる俺たちも「そうか、そうだよな!確かにオレはダメ人間だ!みんなそうだ!でもいつかきっと、って思ってるよ!報われないけど一生懸命やってるんだ!(だから明日もダメ人間でいよう。)」となるんだよなあ〜。

 

そこでこの「名もなき詩」だ。この曲はまさにミスチルっぽさ全開。一応、何だか色々苦しんでいる愛する人への力強いメッセージみたいですけども、結局「ボクもダメなんだから、お前もダメでいいよ」ということですなあ。そうか!ぼくもダメでいよう!

しかも、この曲はもうメロディー素晴らしすぎる。どんな内容であろうともこの曲ならイチコロやで。実はオレはこの曲が出たときはまだミスチルをほとんど聴いたことが無く、この曲を初めて聴いたのは他人が歌うカラオケだった。オレは歌を聴いただけで感動してしまった。他人の歌やで。それで早速レンタルして聴いてみた実際の曲を聴いてオレのその後は決まった。今ではもう1000回ぐらいは聴いた「名もなき詩」だが、未だに聴いていても血がたぎりまくるというか、一緒に熱唱してしまう。

この曲、この時期のミスチル特有のアレンジのおかげで、その呪術的なハイエナジー感に拍車がかかっている。「アトミックハート」までのミスチルのアレンジは非常におしゃれで都会的でトレンディでバブリーで新都庁な感じだった。ギターもシャンシャンと軽い音だし、マントバーニのようなキラキラストリングがいつもなってるし。それがちょっと変わったのがブレイク直後のシングル「es」。ストリングは中音域が強調されたモノとなり、サウンドも骨太になってきた。実はここら辺でメンバーにアレンジへの裁量権が小林武志から与えられたと言う話もある。ここからミスチルの曲のアレンジはどんどん変わっていくのだが、その最初が「ドライ路線」。「名もなき詩」の最初のギターの音からして違う。めちゃめちゃ生々しい。んでストリングとかどっか行ってしまって音空間がすげー狭い。桜井の声、ノンエコー。も、ヘッドホンで聴くともう喉の「げよげよっ」って唾の音が聞こえてきそう。この超ドライレコーディングはアルバム「深海」でもやってたけど、かっこよすぎ。歌詞、曲、アレンジどれも最高。これ聴かんでミスチル語るなかれ。

じゃあ、なんで「名もなき詩」が入っている「深海」を出さないでシングルとして取り上げたのかというと・・・。ミスチルのアルバムってイマイチなんだよねえ。ミスチルのアルバムを買うぐらいならそのお金でレンタルCD行ってシングル全部借りた方がいい。ミスチルのアルバムには絶対にアホみたいに退屈な曲が入っている。「深海」なら「ゆりかごのある丘から」。「アトミックハート」なら「ジェラシー」。しかもそれがあまりにも強力なダルダルパワーを発散しているのでその曲のところで聴く気が無くなるのだ。確かにアルバムでしか聞けない名曲もあるかも知れないがそれはそういう地雷(曲)を乗り越えてやってきたファンのためだけに与えられたご褒美みたいなモノであって、ミスチルのファンでも何でもない人にはリスクが大きすぎる。死ぬで、マジで。

その点、ミスチルのシングルは凄い。発表順に並べたら、

「君がいた夏」「抱きしめたい」「Replay」「CROSS ROAD」「inoccent world」「Tomorrow never knows」「everyboby goes」「es」「シーソーゲーム」「名もなき詩」「花」「マシンガンをぶっ放せ」「Everything (It’s you)」「終わりなき旅」「光の射す方へ」(*「ニシエヒガシエ」は認めん!)

全て名曲。壁がない。「Replay」だけ「Over」とか隠れた名曲に入れ替えて、この曲目でベスト出したらもうアルバムいらん。他のことはいざしらず、作曲能力に関しては桜井和寿は天才としか言いようがない。戦後の歌謡曲作曲家は数あれど、筒美京平、荒井由美、桑田圭祐、小室哲哉、そして桜井和寿がベスト5だね!ん?ムリがあるか?でも、これだけ連続してよく考えつくもんだ。

「終わりなき旅」ではちょっと前向きな歌を披露して、お?休養を経て真人間になったか!?と思わせたのもつかの間、次の曲「光の射す方へ」ではまたぶつかったりもがいたりして、いつものペースに戻って我々を安心させたミスチル。さあ、チミもこのハーメルンの笛吹き男に連れられて終わりなきダメ人間への旅に出てみないか?!


BOOWY
”GIGS”
CASE OF BOOWY
VOL.1−4

1987年・ビデオ
東芝EMI

え〜。ここに来る人でBOOWYをリアルタイムで体験した人はどのぐらいいるんかね。昨年、BOOWYのベスト「THIS BOOWY」が出て、しばらくリバイバル状態でしたわね。こういう話聞くとオレも年取ったと思う。昔来ていたものが一周したってんだから。

で、もし、「THIS BOOWY」を買ったのならスバリ言っとく。

BOOWYのアルバムは最低どす。

BOOWYの魅力って何よ?それはあの4人が一緒にやっている、という存在感ですわ。そしてスリーピース+ボーカルという極めてシンプルな編成からぶちかます超ソリッドな音でしょうが。それがアルバムではもう台無しや。時に時代はパンク・ニューウェーブのまっただなか、とにかく音をいじりたくってしょうがない。BOOWY最高の名曲が揃ったサードアルバムの「BOOWY」ももうイキナリからキーボードとかばりばり鳴っとって「おいおい、ところでお前誰や!」ちゅー感じ。GLAYのアルバムの1曲目がいきなりドラムソロから始まったらみんなひくやろ。氷室の声もいじりまくり。何やの何やの、これ。BOOWYはシンプルでないといかんのちゃうんか!

と、当時の少年達は思っていた。BOOWYを聴いてしまったらとにかく色んなことにこだわらんといかんのや。ボーカルはギター持ったらいかん。ギターは膝より下や。エフェクターはコーラスとイコライザー、それにコンプレッサー。こら、はしゃぐな。歌謡曲をバカにしろ!股上の長いジョッパーはいてその上にボレロを羽織れ!色は黒以外は許さん!写真は半身で撮れ!髪の毛はダイエースプレーでビンビン立てろ(これだけ何故かバクチク)!「A」は天地逆に、「E」は左右逆に書け!!!

もう陰陽道のごとく決まり事があるのだ。BOOWYを好きだった時ほど、自分以外のモノに対して不寛容な時は無かった。しかし、BOOWYはそういうバンドだったのよね〜。したがって生半可なサウンドは怒りの対象にしかならん。

と言うわけでこれからBOOWYを聴きたいという人にお勧めするのはもうライブしかない。「LAST GIGS」でも良かったけど、やっぱりBOOWYという存在により近づくには映像がいい。1987年に神戸と横浜で行われた怒濤の4時間ライブの記録がこの「CASE OF BOOWY」。ぼくらの世代の人にはあんまりにも有名な作品ですわ。これはもう最高。これを見て何にも感じなかった人はもうBOOWYと一生触れ合わない方がいいでしょうな。

BOOWYの音の一番の肝はその4人だけのシンプル&ソリッドさ。別にライブじゃ音をいじくることもあんまりないから音そのものの感触はどの曲もほぼ同じ。ところがそれでいてパンクのような一様な感じはまったくないだな、これが。その一番の要因は布袋寅泰のギター、これが単純でありながらめちゃめちゃかっちょええバッキングをかましよるのだ。布袋は早弾きとか全然しないけどこういうセンスは異様にすごい。布袋のギターをバンドかなんかでコピーしたことある人ならわかると思うけど、彼のプレイってめちゃ簡単なんや。初心者でも結構いけるぐらい。それでいて弾いてて何というか満足感があるというか、自分がかなりの達人になったような気分を味わえるんや。当時、バンドを始めたら取りあえずBOOWYからという連中がどれほど多かったことか(かくゆう私もそうやったけど)。こういう素晴らしいバッキングをスタジオじゃ上から鍵盤かぶせよるんやから、ホンマどういうつもりや。

んでもって氷室がまためちゃ歌巧い。この人、ライブでもスタジオでも全く同じ声出しよるし、上からエフェクトかけるアルバムとかに比べたらライブの方がよっぽど艶のある西条秀樹ボイス聴かせてくれるで。動き回って歌っても全然音程がぶれんし、こんなんめったにおらん。布袋が吉川に幻滅する気持ちわかるで。レベル違いすぎる。

最近はレコーディング技術が進んできて、ヘタしたらライブで聴くより遙かに燃えるスタジオ盤もある。実際、前出の「名もなき詩」なんか、ライブよりCDの方が燃えるぐらいやもん。でもね、BOOWYに関してはライブが全て。アルバムなんかど〜でもいいわ。みなさん、このビデオをレンタルビデオ等で見かけたら是非借りましょう!

みんなが喜んでビジュアル系を聞いてる横で「でもさあ、結局今のGLAYとかの連中がやってる事って全部BOOWYがやっちゃってるんだよねえ」とか言って場を凍り付かせたいルーツ派の君!BOOWYを聴こうぜ!


JUDY AND MARY
MIRACLE DIVING

1995年・アルバム
東芝EMI

 

HYSTERIC BLUEを見て「何や、これ。こんなんジュディマリそのまんまやないか」というオッサンの俺は、数年前JUDY AND MARYを見て「何や、これ。こんなんREBECCAそのまんまやないか」と言っていた。まさかここまでハマるとはな〜。

JAMは世の中にポップバンド数あれど、日本で、いや世界でも最強のポップバンドであると言い切ってしまおう。理由は・・・。

JAMの偉大さの源、それは「切なさ」。言ってて恥ずかしいがホントにそうなんだもん。松村雄策がロッキンオンで昔言ってたけど、「ポップさとは、切なさのことである」。これは正論。もちろん、人によって違うとは思うけど。誰にも「この曲を聴くとあの素晴らしい時を思い出す」という曲があるでしょう?良く人生の一番の時期を夏に例えることが多いけど、人が「ああ、あの頃はよかったなあ」という時の風景は必ず夏の景色なのだ。そして、そのバックに流れる音楽は何?それはポップな曲が多いと思わない?特にそれが甘酸っぱい想い出を思い出させる場合は。アニメソングは「ポップ」な曲が多い。だからアニメファンの「人生の夏のBGM」は常にアニソンのはずだ。

JAMはデビュー当時はごく普通のキャッチーな曲を歌うガールズパンクにしか過ぎなかった。そしてそれは1枚目、2枚目と変わらなかった。つまりJAMは青春を突っ走っていた訳。それがふと立ち止まり、振り返ってみたのがこの3枚目のアルバム「MIRACLE DIVING」。「KYOTO」「あなたは生きている」「帰れない2人」と今までのアルバムではついぞ見なかった曲が入ってきている。そして何より「アネモネの恋」。これはJAMが今まで歌ってきた「若さ全開」の曲じゃない。今までは8月3日あたり、「夏休みバリバリ」の曲を歌ってきたのに、これらの曲は「8月27日の夕方」なんだ。

それは不思議な感覚だった。一方では1,2枚目と同様な若さを目一杯にほとばしらせながら、それを懐かしく思うような瞬間を同時に併せ持ったようなアンバランスさ。そしてそこに「切なさ」があった。それはヤンキー達が生活の一つ一つの区切りにいちいち感動を求めたがる様なそんな気分に似ている。若い時代はいつの間にか突っ走ってしまって通り過ぎているというのは誤りなんだ。若さを持っている人間こそ、自分の若さに執着するモノなのだ。自分の素晴らしい(と後になったらおもうだろう)日々に絶えず印を刻んでいくものなんだな〜。そしてその行為をJAMは3枚目にして行った訳だ。

 

挿話だが、一昨年に俺は甲子園にまでJAMのツアーを見に行った。もちろん初めてのJAMのライブであったので俺はかなり期待していた。しかし、その期待は大きく裏切られる。YUKIの声は不安定で3曲も歌ったらもうヘタリきってヘロヘロ。その度に体力回復するまでサムいトークや聴きたくもないTAKUYAの歌を聴かされるし、のんべんだらりとした非常にマズいライブだった。そんななか、コンサートも終盤を迎えた頃に、俺は異様な光景を目撃した。

YUKIが大泣きしている。俺はてっきりあんまりにもライブの出来が悪かったので情けなくて泣いているのかと思ったがどうも様子が違う。YUKIは感激して泣いているのだ。渡辺美里か、お前は。ファンの証言によるとYUKIはコンサートの度に号泣してるらしい。あのコンサートで何で泣く?と思った俺は、これこそJAMの歌の魅力の手がかりや、とひらめいた。サムいトークを楽しそうに話し、アホみたいな服を着、ことあるごとに泣く。俺と同じ歳でありながらYUKIは日々のあらゆる瞬間に永遠を見る、中学生の少女そのものではないか。この感性がJAMの歌をして俺達が昔に置いてきたあの想いを蘇らせるのだ。そうだったんだ!

 

この「MIRACLE DIVING」によって俺のなかでのJAMの評価が決定的になった。すなわち、JAMとは「青春の残滓」を普遍化することをやり遂げたバンドになったのだ。卒業アルバムを開ける時のあの気分、素晴らしかったいつかの夏の思い出を反芻するあの面映ゆくも楽しい気分。それは人にとって個別の体験であるはずだ。それぞれにとってのBGM、色、香りがあるはずなのだ。しかし、JAMはそういった個別のアトモスフィアをパラメータとしてその楽曲のなかに蒸着してしまった。つまりJAMの曲を聴いた人は、その時にその曲を聴いていなかったにも関わらず、そのメロディーをBGMにして「人生の夏」の思い出をもう一度心に蘇らせることが出来るのだ。ああ〜、うれしはずかし〜。

 

JAMは現在活動休止期間に入っている。今のところ最新のオリジナルアルバム「POP LIFE」は今までのアルバムにあったキラキラした部分がすっかり影を潜め、意外な程普通のアルバムだった。「THE POWER SOURCE」がダブルミリオンのセールスをマークし、全国のスタジアムを串刺しにするモンスター・ツアーをやったJAMは少々疲れてしまったのかも知れない。充電は必要だよ。

こういう「若さ」を全面に押し出したバンドの休養後は難しい。JAMが持っていた「切なさ」は、バンドが持っている若さの副産物として出てきたものであって、若さのないバンドが青春を振り返ったら「HOTEL CALFORNIA」みたいなとてつもなく後ろ向けなものになってしまうのだ。そのままでいくのか?それともSASやU2の様にマッチョサウンドにモディファイして出てくるのか?ブラーのようにレイドバックするのか。解散の可能性も少なからずあるJAMだが、戻ってきたときにはどんな音楽をやるのだろう・・・。


この後のレビュー予定

はっぴいえんど、大滝詠一、筋肉少女帯他


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